価格転嫁はなぜ進まないのか

 近年、原材料費や人件費の高騰を背景に、企業による価格転嫁の重要性が高まっている。帝国データバンクの2025年7月調査では、企業全体の価格転嫁率は39.4%と過去最低を記録。上昇したコストの6割以上が企業負担となっており、とくに人件費など定量的説明が難しい項目では転嫁が進みにくい。価格転嫁の難しさが顕著なのは川下産業、すなわち消費者との接点を持つ業種である。外食、小売、教育、サービスなどでは、価格改定による顧客離れへの懸念から慎重な姿勢が目立つ。

 中小企業庁の調査でも、原材料費の上昇に売上単価が追いつかず、業況判断指数(DI)は横ばい。サプライチェーンの下流に位置する企業ほど転嫁が困難で、「転嫁率ゼロ」とする回答も増加している。

 この鈍化の背景には、構造的・心理的要因が複雑に絡む。度重なる値上げにより価格感度が高まった消費者や取引先に対し、企業はさらなる改定に踏み切りづらい。人件費や外注費など定量化が難しいコストは、合理的な説明が難しく、交渉が進みにくい要因となっている。中小企業では、発注側の価格据え置き圧力や交渉力不足が障壁となり、取引段階が下流になるほど転嫁率は低下。一方、大企業ではブランド力や交渉力を背景に、販売価格への反映が比較的順調に進んでいる。

 業種別に見ると、製造業は原材料費やエネルギーコストの上昇が明確であるため、価格改定の根拠を示しやすく、比較的価格転嫁が進みやすい傾向にある。一方で、部品加工など下請け構造が強い分野では、親企業が価格決定権を握っており、転嫁の余地は限定的である。また、競合が激しい製品分野においては、価格改定が競争力の低下を招く懸念から、転嫁が進みにくい状況も見受けられる。実際、化学工業や食品製造業では高い価格転嫁率が確認されているのに対し、トラック運送業や広告業では転嫁率が30%台にとどまっている。こうした業種間の格差の背景には、取引構造や価格交渉力の違い、さらには競争激化への警戒感といった要因があると考えられる。

 価格転嫁の成否は、単なるコスト構造の問題ではなく、企業の交渉力、顧客構造、競争環境といった経営戦略上の要素と密接に関係している。成功している中小企業は、原価構造の開示や納得感のある説明を通じて信頼関係を構築しており、こうした取り組みが今後の鍵となる。

 政府は「価格交渉促進月間」や「パートナーシップ構築宣言」などの制度的支援を推進しているが、現場では「交渉の仕方が分からない」「受け入れてもらえない」といった声も根強い。加えて、社会全体で「値上げを受け入れる文化」が十分に醸成されていないことも、転嫁の鈍化を招いている。

 今後は、価格改定の透明性を高め、付加価値の訴求を通じて顧客の納得感を醸成することが、持続可能な価格転嫁の鍵となるだろう。