地政学リスクの核心、「板挟み」常態化の経済安全保障

タイ特派員 齋藤正行

 タイの地政学リスクといえば、長年引きずるカンボジアとの国境問題、内戦難民の流入による国境周辺の治安悪化といったミャンマー情勢の波及、東南アジア地域に緊張を強いる南シナ海問題、米中関係の狭間で揺れるタイの通商・産業構造などが挙げられる。その中でも現在のタイにとって最重要な地政学リスクといえば、米中貿易摩擦の勃発で明らかになった「経済安全保障」だろう。タイは二つの大国の間で選択を迫られ続ける「板挟み構造」にある。

米中対立と経済安全保障の前面化

 2010年代初頭、タイは比較的自由度の高い国際環境にあった。米国とは冷戦期からの同盟に準じる安全保障関係を背景に、日本の自衛隊も参加する合同軍事演習「コブラゴールド」を通じた安全保障協力が続いている。一方、中国とは貿易と観光を軸に経済関係が急速に拡大してきた。タイにとって両国との関係は並立可能と見なされ、米オバマ政権が「アジア回帰」を掲げた時期も、地政学がビジネス判断の主要因となる段階には至っていなかった。

 転機となったのは2018年、トランプ政権が中国の過剰生産や通商慣行を問題視し、関税措置を本格化させたことである。通商拡大法232条に基づく鉄鋼・アルミニウム関税は、中国問題を背景として同盟国を含む多くの国からの輸入に広く適用された。これを機に、タイにとっても経済活動は安全保障と切り離せないものとなる。「経済安全保障」が現実の政策課題として前面化した。

 このような状況の中で、タイ国内では中国メーカーの進出が加速した。電機、太陽光パネル、電気自動車(EV)および関連部品などの分野で中国企業が生産拠点を構え、タイでの存在感を高めた。

 一方、米国は中国製品が第三国を経由して米国市場に流入する「迂回輸出」を強く警戒しており、ベトナムやペルーと並んで、タイについても原産地規則の厳格な運用を注視する姿勢を強めている。現時点でタイ自体が制裁対象となっているわけではないものの、こうした米国の警戒感は、タイ企業およびタイに進出する外国企業に対して抑止的に作用している。

 こうした政策環境の変化は、タイに進出する日系企業の輸出にも影響を及ぼしてきた。2018年の米232条関税の発動後、タイに生産拠点を持つ日系自動車部品メーカーや素材メーカーも、コスト設定や輸出戦略の見直しを迫らる事例が報告されている。原材料の調達先や加工工程によっては追加関税の対象となったためだ。タイが直接的な制裁対象国でなくとも、米国の経済安全保障政策が間接的に事業活動に波及することが明らかになった。

タイが直面する新時代の地政学リスク

 2020年以降、コロナ禍によるサプライチェーンの混乱は、生産拠点や調達先の分散を企業に迫り、経済合理性だけで立地や取引先を選ぶことを難しくした。また、ウクライナ侵攻を契機としたロシアに対する制裁の常態化は、制裁が当事国にとどまらず第三国の取引、金融、物流にも波及する現実を浮き彫りにした。これら二つの出来事は、タイが米中という二つの大国の間で置かれてきた板挟み構造を、もはや後戻りできないものにしている。

 そして今年、米国は関税政策でタイに36%の高関税を提示したが、カンボジアとの国境紛争の停戦宣言を評価し、19%に引き下げた。しかし停戦が破られると、米国は直ちに関税交渉の一時停止を通告。現在、経済安全保障とカンボジア国境問題という2つの地政学リスクが絡み合うという事態に発展している。

 観光業においても状況は同様である。純粋な旅行者の増加に伴い、犯罪をたくらむ不法入国者も流入しやすくなる。観光収益の増加で国家財政は潤うものの、タイが国際犯罪の温床・経由地というレッテルを張られることが懸念される。タイにとっての地政学リスクとは、「突発的な危機」ではなく、むしろ「選択を迫られ続ける構造的な環境」であることが、ここからも明らかである。

バンコク中心部・サイアム地区にある巨大ショッピングモール