2025年9月、アサヒビールはランサムウェアによるサイバー攻撃を受け、受注・出荷システムが停止した。その結果、全国的に商品の供給が滞り、消費者生活や流通業者に深刻な影響を及ぼした。顧客相談室への問い合わせ情報や慶弔対応先の氏名・住所など約191万件の個人情報が漏えいした可能性があり、従業員情報も一部流出が確認された。クレジットカード情報は含まれていなかったものの、事業活動への影響は甚大であり、数日間の出荷停止に加え、11月の売上高は前年同月比で7割台後半にまで落ち込んだ。
外部からの攻撃を完全に防ぐことは容易ではない。しかし、経済安全保障の観点からは、情報管理やサイバーセキュリティの確保に向けてどのような対策を講じるべきかが重要な課題となっている。経済安全保障とは、国家および国民の生活を守るために経済的側面から安全を確保する取り組みである。従来の安全保障が軍事力を中心に構想されてきたのに対し、経済安全保障はエネルギー、食料、資源、重要技術の安定供給を確保し、他国からの経済的圧力や過度な依存を回避することを目的とする。
原油や天然ガスの安定的な確保は社会基盤の維持に不可欠であり、食料の国内生産力強化と輸入依存度の低減は国民生活の安定に直結する。レアアースや半導体材料の多様な調達は、特定国への依存を減らす手段である。AI、量子技術、宇宙開発、バイオテクノロジーなどの先端技術の保護と育成は国家競争力の維持に不可欠である。情報・サイバーセキュリティ分野では、重要インフラや企業システムを防御し、機密情報や知的財産の流出を防ぐことが求められる。さらに他国による輸出規制や経済制裁が発生しても、国民生活や産業活動が大きな混乱に陥らないように、多様な供給網・国内生産力の強化、戦略的備蓄の拡充、国際協力の推進といった包括的な体制整備が不可欠である。
日本では新型コロナウイルスの影響や国際的な地政学リスクを背景に、サプライチェーンの脆弱性が顕在化した。半導体や医薬品などの供給不足は、企業活動や国民生活に直接的な影響を及ぼし、また巨大市場を背景にした経済的圧力や先端技術の流出防止も重要な課題となっている。こうした状況を踏まえ、2022年に経済安全保障推進法が成立した。この法律では、特定重要物資の安定供給、基幹インフラの保護、先端技術の育成と保護、そして同盟国との連携強化が柱とされている。これにより、通信や電力、金融などの社会基盤を守りつつ、研究開発や国際協力を通じて技術的優位性を確保することを目指している。
経済安全保障を脅かすサイバー攻撃
アサヒビールは電子発注システムを12月から段階的に再開し、2026年2月までに正常化を目指す復旧計画を策定した。また、通信経路とネットワーク制御の再設計、外部接続の制限強化、バックアップ機能の分散化、事業継続計画の見直しなど、再発防止策を講じている。しかし本件は、単なる企業のシステム障害にとどまらず、経済安全保障の観点から重要な示唆を与える事例である。
大企業においては、形式的なセキュリティ対策では不十分であり、サプライチェーン全体の安定性が経済安全保障に直結することが明らかとなった。情報公開の遅れは社会的信頼を損ない、迅速な対応体制の必要性を際立たせた。企業事例に加え、経済安全保障を脅かす事例も数多く存在する。医薬品の供給途絶リスクはその典型であり、抗菌性物質製剤の原材料の多くを中国に依存している現状では、供給が途絶すれば感染症治療に深刻な支障をきたす。半導体や蓄電池の供給不足もまた、産業活動やエネルギー政策に直結する脅威である。
レアアースやウランなどの重要鉱物は、防衛産業やエネルギー分野に不可欠である。特定国への依存が高まることで供給途絶や価格高騰のリスクが増大する。とくに、レアアースは世界生産の約7割以上を中国が占めており、供給の政治的リスクが常に存在する。ウランについては、カナダ、オーストラリア、カザフスタンが主要産出国であり、日本の原子力発電燃料の安定供給はこれらの国との関係に左右される。
石油や天然ガスなどのエネルギー資源も、日本の輸入依存度が高い分野である。天然ガスの主要産出国は米国(世界最大)、ロシア、イラン、中国、カナダ、カタール、オーストラリア、サウジアラビア、ノルウェー、アルジェリアなどである。石油はサウジアラビア、ロシア、米国、イラク、イランなどが主要産出国であり、中東地域の安定が日本のエネルギー安全保障に直結している。このように、資源供給は特定地域に集中しており、国際紛争や輸送経路の混乱が生じれば、日本の国民生活や産業活動は直ちに影響を受ける可能性が高い。例えば、ロシア・ウクライナ戦争後の欧州における天然ガス供給危機は、資源依存のリスクを世界的に浮き彫りにした。
食料と資源依存が突きつける日本の経済安全保障
食料自給率がカロリーベースで4割程度にとどまる日本は、穀物や飼料、油脂原料などを海外に大きく依存している。国際紛争や輸送経路の混乱、輸出規制が生じれば、国内の安定供給は容易に揺らぐ。ウクライナ危機による小麦価格の高騰や気候変動による農産物の不作は、食品供給の不安定さを浮き彫りにした。食品は国民の生命維持に直結するため、他の重要物資以上に経済安全保障の根幹をなす。
日本の経済安全保障は、軍事面では米国依存、経済面では海外供給依存という二重の構造を抱えている。憲法第9条の制約の下で自衛隊は存在しているが、軍事的抑止力の多くを米国に頼っているのが現実である。この構造は、国内外から「自立性の課題」として指摘されてきた。経済面では、医薬品原料や半導体、鉱物資源、食品などの供給を海外に依存しており、経済安全保障の基盤が外部要因に左右されやすい構造となっている。
日本の経済安全保障は他国依存の構造を抱えている。同盟関係を維持しながら、自国の産業基盤と技術力を強化し、供給網を多様化することで依存度を低減することが求められる。グローバル依存が不可避となった現代において、経済安全保障は国家存立の基盤である。ゼロトラストの導入や迅速な復旧体制の整備を含め、国家全体で強靭な対応を構築し、持続可能な経済安全保障体制を確立することが必要である。

