近年、日本の中小企業における労働分配率は80%近くに達しており、企業が生み出した付加価値の大半が人件費として支出される状況が続いています。この数値は、大企業の平均的な労働分配率(約50%)と比較して著しく高く、経営の自由度や投資余力を圧迫する要因となっています。
もっとも、労働分配率の高さは必ずしも非効率性を意味するものではありません。中小企業は人的資源への依存度が高い業種が多く、従業員の定着や満足度を重視する経営姿勢をとる傾向があります。そのため、限られた利益の中から人件費に厚く配分することは、企業の持続性や地域社会への貢献という観点から一定の合理性を持っています。
しかしながら、こうした状況下で賃上げを実施することは容易ではありません。利益余力が乏しい中小企業にとって、賃上げは経営リスクを伴う決断です。それにもかかわらず、2025年度には資本金1億円未満の企業のうち84.6%が賃上げを実施すると回答しており、65%の企業が「毎年賃上げが可能」と見込んでいます。これは一時的な対応ではなく、継続的な賃上げを志向する動きが中小企業の間で広がっていることを示しています。
政府の方針と中小企業への影響
こうした動きの背景には、物価上昇を上回る賃金上昇を全国的に定着させるという政策目標があります。石破政権は2025年、「中小企業・小規模事業者の賃金向上推進5か年計画」を打ち出し、最低賃金の全国平均を過去最大の伸び幅で引き上げました。政府は「2020年代に全国平均1,500円」という最低賃金目標を掲げており、その達成には中小企業の賃上げが不可欠とされています。
この方針は単なる要請ではなく、政策的支援とセットで進められています。価格転嫁の徹底、下請法の改正、省力化投資への補助金、地域経済との連携など、多面的な支援策が展開されており、企業の利益体質の強化を通じて賃上げの実現を後押ししています。
とはいえ、現場の声は複雑です。日本商工会議所の調査では、7割以上の中小企業が「政府目標の賃上げには対応できない」と回答しており、性急な引き上げが倒産や廃業を招く懸念も指摘されています。政府はこうした現実を認識しつつも、「賃上げこそが成長戦略の要」であるという立場を崩しておらず、骨太の方針2025では「減税より賃上げ」を明確に打ち出しています。
賃上げは「社長の一声」で決まるのか
厚生労働省の集計によれば、2025年の春闘では、主要企業の平均賃上げ額は18,629円、賃上げ率は5.52%に達し、いずれも前年を上回る結果となりました。これは、労働者側の要求が企業側に一定程度受け入れられたことを示しています。
一方、中小企業における賃上げの決定は、制度的な労使交渉や株主との合意を経る大企業とは異なり、しばしば「社長の一声」によって左右されます。とくに未上場企業や家族経営の企業では、経営資源の配分や人件費の増減に関する最終判断が社長個人に集中しており、賃上げの実施はその意思に大きく依存する構造となっています。
一度賃金を上げると、法律上それを下げることは極めて困難であり、将来の業績悪化や景気後退を見越して「今は上げるべきではない」と判断するケースも少なくありません。
このように、中小企業における賃上げは、制度よりも個人の判断に依存する傾向が強いです。それは柔軟性と迅速性をもたらす一方で、従業員にとっては意思決定プロセスの不透明さを招く可能性があります。したがって、社長の「一声」が賃上げの起点となるのであれば、その発言が従業員の声や社会的責任といかに向き合っているかが、企業の信頼性と持続可能性を左右する重要な要素となるでしょう。